映画『沈黙‐サイレンス‐』~宗教観から観る日本の役割

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 『沈黙‐サイレンス‐』舞台挨拶に行ってきました。

予告を見てから、必ず見に行きたい!と思っていたこの『沈黙‐サイレンス‐』

 

1月31日TOHOシネマズ日本橋で行われた舞台挨拶上映に行ってきました。

 

窪塚洋介さんより、今はSNS拡散の時代なのでお客さんも写真どうぞとのお言葉があり、撮った写真がこちら。

 

 
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遠くてピンボケ、、ですが素敵でした!

 

左からモキチ役の塚本晋也さん、キチジロー役の窪塚洋介さん、井上筑後守役のイッセー尾形さん。

 

概要はこちらをご覧下さい。

chinmoku.jp

 

お次は鑑賞感想です。

 

ネタバレ含みます!

 

 

時代背景:なぜ日本ではあんなにもキリスト教を弾圧していたのか?

 

この映画の舞台は江戸時代初期、原作では3代目家光の時代です。劇中では、日本はキリスト教が根付かない土壌、沼地だという表現をされていました。

 

江戸時代の日本は、なぜあんなにもキリスト教を追放しようとしていたのか??まず私が一番気になったポイントでした。

 

台詞でも、奉行たちが「キリスト教は危険な教えだ」と言う場面がありましたね。一説には、最初は織田信長も豊臣秀吉もキリスト教を容認していたが、彼らの裏目的(大航海時代の植民地化政策、奴隷貿易の促進)を知るやいなや禁止に転じたとも言われています。

 

その根本にあるキリスト教に対しNoを言い続けたあの時代の日本。それほどに守りたかったのは何だったのか。私は、人間の尊厳に対する捉え方だと理解しました。 ちょっと具体的に思い出せないのですが、西洋と東洋の根本的な人間観の違いを述べた台詞もあったと記憶しています。(もう一度見るか、原作確認したら追記します)

 

映画でも日本側の奉行はかなりの切れ者、リーダーとして描かれています。必ずしも西洋思想○東洋思想×として描かれてはおらず、奉行も弱者を弾圧するだけの存在ではない。すべてを俯瞰した上でNoを言う人物です。

 

そして、物語はキリスト教vs日本として展開していきます。

 

宗教のつくる構造的苦悩について

 

そんなキリスト教が弾圧されている日本の中でも、隠れキリシタンと呼ばれる人々は粛々と信仰を続けていました。彼らは貧しい農民たち。

 

劇中では、彼ら農民たちをみる司祭の苦悩が描かれていたことも印象的でした。司祭に告解(罪を告白して許しを請うこと)を延々とし続ける教徒に対し、司祭が疲れた表情を見せている場面もありました。

 

司祭も職業としてキリスト教に身を捧げている存在ではありますが、彼らもまた人間。その司祭に対し、助けてくれとすがり、詰め寄る農民たち。

 

農民たちをみると、厳しい現実から逃避するために宗教にのめり込む構図をみてとれます。奉行と司祭の会話のなかでも大衆たちは判断できないのだ、という台詞もありました。司祭も、農民たちが正しくキリスト教の教え・真理を理解しているわけではないことも次第に気付いていきましたね。遠く離れた日本の地で美しい信仰が根付いているのは幻想だったと。

 

何かに判断を委ねてしまったその瞬間、弱者であり続ける構図になってしまうのです。宗教は行動の指針としては一定の効果があるものだと思いますが、意思決定をそこに置いてしまったときの人間の弱さが出てしまうのです。それがその宗教の限界でもあるのかなぁと。

 

思想の融合の難しさ

 

仏教神道を基にした日本の思想とキリスト教思想。どちらかが正しくてどちらかが正しくないものではありません。そして、本質的にはどちらも真理を表そうとした人間の叡智です。

 

しかし、、どちらかを正しいとして、他方を違うものとして捉えた瞬間に、人間の頭の中ではその思想が存在するものとなり、永遠に融合することはありません。映画の中ではその絶望も描かれていました。激しい断罪、厳しい刑罰の数々。奉行らもやりたくてやっているわけではなくても思想を排除するにはそれしか方法がない。

 

日本の観点、キリスト教の観点、残念ながら、どちらも自分が正しいと思っている限り融合することはないのです。

 

そして、改宗したようにみえた司祭も実際の心は信仰を捨ててはいませんでした。ただ、言葉にしなくなっただけ。

 

それほどまでに人間の思想は深く堅いものなのだとあらためて思いました。

 

本当の意味でどちらも包越する概念・理論を人間が生み出さない限りは、この世界の争いはなくなることはないのです。

 

最後に、今の時代におけるこの映画の意義とは

 

この映画の原作は、日本人作家遠藤周作氏の34年前の小説です。当時も世界的に有名になったそうで、アメリカ人であるマーティン・スコセッシ監督にとっても映画化の構想を長年温めていたテーマとのことです。

 

それが今の時代にハリウッド映画として制作され、世界から脚光を浴びています。これは何を指しているのでしょうか。

 

舞台挨拶で窪塚洋介さんは、監督からは強者弱者の今の世界はもう終わりにしたいというメッセージがあるのではないかとのお話がありました。また、キチジローが今の若者に重なると言い、時代がこのままでいいのか、心のままに生きる重要さにも言及されていました。

 

私も同感です。映画で描かれていたのは人間の苦悩そのもの。だからこそお互いの思想を超えて世界が平和に向かう時代の幕開けが今なんだと捉えました。そのために世界から見たら特異に映る、独特の思想と文化の歴史をもつ日本。その役割が果たすときが来ているのだと思います。

 

もっともっと語りたいことはあるのですが、いったんここまで。ここまで語れる映画が上映されたことがとてもとても嬉しく思います。

 

お読みいただきありがとうございました。

 

 

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Written by
チームワークコンサルタント miwa