日常で哲学を使うとどうなるか
コロナ禍で仕事が思いっきり忙しくなってしまって、久しぶりの更新です。みなさんお元気にされていますか?
相変わらずコロナはおさまることもなく、めっちゃ酷暑だし、もう街の空気がむせかえっていて、外に出るのもおっくうになります。
もともと博物館とかランチ出かけたりとか外出外食が好きだったはずが、この半年ですっかり引きこもり生活に。。
朝から晩までオンラインで交流はしているので、これは引きこもりなのかな?引きこもりの定義を調べてみよう。
【ひきこもり】
長期間にわたり自宅や自室に閉じこもり、社会的な活動に参加しない状態が続くこと。
〜Goo辞書
なるほど、前半は合っているけど、後半は違う。どうやら私は引きこもりではないらしいです。
コロナによってこういう単語ひとつの使い方も意味合いが変わってくるんですね。
目の前の現象がこんなにも変わるなんて、半年前でも考えられなかったことです。
ころころ変わる情勢に人はどう立ち向かうんでしょうか。もちろん、立ち向かわなければいけないわけでもありません。どうしたら日々を楽しく穏やかかつ健やかに過ごせるんでしょうか。
哲学の価値
最近は哲学の価値をすごく感じています。
哲学、、なんだかかたいイメージ。「確固たる哲学を持っている」=「頭が固い」。そんな風に思っていた時期もありました。
頭が固いと思ってしまうのは、「その人の持っている哲学が固いものだから」です。やわらかい捉え方の哲学もあることも昔は知りませんでした。
哲学とはなにか。現象を変化させるのが科学だとすれば、主体を変化させるのが哲学だと言えます。つまり「この現象をどう観るか?」ということ。
現象と観方を分離させることで〔物事がまったく変わる〕というやつです。
この〔一歩引いて観る〕ことがとっても大事だと、最近よく思うわけです。
なぜならば、現象と観方が自分の中でぴったんこになりすぎていると、現象がころころ変わると同時に、自分の感情もめちゃくちゃ振り回されるから。
コロナ禍がわかりやすい例なんですが、感染者数に不安になったり、ワークスタイルが変更を余儀なくされて将来どうしようと思い悩んでしまったり。逆に「もう流されて生きよう」と無気力になってしまったり。
本質的には現象が問題ではなく観方が問題なのに「現象がこうだから仕方ない」になってしまうんです。
一方で、どんな現象が起こっても、穏やかに健やかに過ごせる人はいるんですよね。
その違いはどこから来るのでしょうか。
そこで使える道具が哲学なんです。哲学とは、この「どう観るか」を徹底的に研究しているパートです。
古代ギリシャの時代から現代もなお、哲学者の方たちは「どう観るか」を追求しつづけています。
最近では、ドイツのマルクス・ガブリエル「なぜこの世界は存在しないのか」がブームになったりしました。
そういえば世の中は哲学ブームと言われているらしいです。混沌とした時代に生きる知恵が詰まっているから、今ブームになっているのも超納得です。
哲学は難しい、けど
でもね、哲学って難しいんです。そもそも単語も難しい。カントの純粋理性批判とかすごい量ですよ。読んでるうちにわけわからなくなる(らしい。私はNHKの100分de名著のカント解説本しか読めていません。)
なぜ難しいんでしょうか?
【書かれている言葉からイメージを補完しながら受け取る必要があるから】だと私は思います。読書とはそういうものですが、読書のなかでも難易度高すぎなんです。
そして、そもそも哲学は観方を追求する分野だと言いました。つまり、形のないものを習得する必要があります。これもまた難しいんです。二重苦です。
何度も何度も何度も「これってどういうこと?」と自分で質問と答えを反復して、やっと「あ!そういうことか」が来るんです。まさに修行の道。
でもね、逆に一度しっかり腑に落ちた「あ!そういうことか。」は自分のものなんですよ。誰になんと言われようが自分のものです。おめでとうございます。
それってかなり強いと思いませんか。ぶれない生き方が手に入るということですから。
だからカントでもニーチェでもドゥルーズでもどれでもいいので(おおざっぱ)哲学を日常に取り入れてほしいと思っています。みんな生きやすくなるから。これは本当に。
ちなみに私のおすすめは令和哲学です。これでかなり考え方が安定しました。
昔は人目が気になりすぎて、会議で発表するだけで過呼吸になるくらい重症だったんですが(完全にやばい人です)、今はコントロールできるようになりましたし、何よりそのシチュエーションを楽しめるようになりました。
哲学とは決してわかりやすいものではありませんが、日本人お得意の粘りがあればかならず自分のものになりますよ。
お読みいただきありがとうございました。
Written by miwa(@miwa_spring33)