『チームワークこそ人生の楽しみ』と思うまでのお話①
このブログのタイトルは「チームワークこそ人生の楽しみ」です。こう思うに至った私のお話を書きます。
前編・後編でお届けします。お時間のあるときにお付き合いください。
私の人生、一言で言えば、ぬぐえない孤独感を蓄積してきた人生でした。
でも、今ではすっかり、チームワーク”こそ”人生の楽しみだと、言い切れます。
どうしてそうなったのでしょうか??
それは人生をひっくり返す出会いがあったからです。
複雑な家庭環境に育つ
私は、蛍が飛ぶような、のどかな里山に生まれました。
最初の事件は、6才のとき。
小学校入学直前に、父が浮気をして家を出ていってしまい、母子家庭になりました。小学校入学したら周りは母子家庭扱いに変わりました。祖父母と6人家族だったところ、母弟の3人家族に。あまりの変化にわけがわかるまでしばらくかかりました。
それから母と弟と3人で暮らしていたところ、10歳のときに今度は突然父が帰ってきた。再婚相手とうまくいかなくなったためです。またまた私はよくわからないまま、家族は元通りに。
「再婚して産まれた子はどうなったの?」「どうして帰ってきたの?」「私の気持ちはどうしたらいいの?」
そんなもやもやを両親に聞くことはできませんでした。
そんな幼少期を過ごした私の人生観がこちらです。
どうせみんな自分の人生を好きに生きている。
だれも私のことなんて気にしていない。
私は私で、幸せになるしかないんだ。
前進、前進、また前進。
そのように誓った私は目の前の現れる課題に対して貪欲に挑んでいきます。
中学校では休み時間も勉強し続け、高校受験の頃には5教科の成績が5段階評価オール5になりました。おかげで高校受験では第一志望校の進学コースに合格しました。
高校でも3年間受験勉強に奔走。実は3年生の夏までは第一志望の国立大学はE判定だったんです。しかし最後の最後まで粘り、センター試験で高得点を取り無事に合格しました。結局学習塾には一度も行かず、学校の勉強と図書館での自主勉強で自力で合格しました。
大学ではわざわざ厳しいゼミに所属して、自らを追い込みました。就職活動では就職氷河期で思ったようには内定はもらえず苦しい日々でしたが、最終的にメーカ系IT企業から何とか内定をもらえました。
会社に入ると数少ない女性の法人営業職として仕事に没頭しました。苦手な飛び込み営業をやったり、提案書提出のために徹夜をしたり、お客様先で障害対応で張り付いたり、何億円のための見積書を作成したり、本当に忙しい毎日です。同期のなかでも早めに昇進し課長の手前までたどり着きました。
当時の私の思考回路
自他ともに認める努力家でまじめだった私。
日常は当然辛いことがたくさんありました。でも辛いことの先には、必ずよいことがありました。受験に合格したり会社で昇進したり大型受注の契約が取れたり。
辛いときには家でたくさん泣いて疲れ果てて寝ます。すると、朝になったらすっきり忘れます。朝の空を見上げながら「こんなに空も青いんだから、またがんばろう。」と切り替えてきました。
私の人生、そんなことの繰り返しでした。
大好きなミュージカル「アニー」Tomorrowの歌詞にこんな一節があります。
寂しくて憂鬱な日には、胸を張って歌うの
朝が来ればトゥモロー、涙のあとも消えていくわ
トゥモロー、トゥモロー、アイラブヤトゥモロー、明日は幸せ
この歌詞を地で行く人生でした。トンネルの先には必ず光があると信じて…
チームワークへの強烈な憧れ
自分の幸せ成功を第一に進みながらも、本当は憧れていたものがありました。
それがチームワーク。
自分は自分でがんばるしかないと思いながらも、いや思っているからこそやっぱり憧れるんですね。
小学生の頃から助け合う社会を夢見て、障がい者ボランティアの活動に参加していました。
高校時代は山岳部に所属し、競技登山に夢中になりました。競技登山は4人一組のチームプレー。時にはテントの中で泣きながら話し合うことも。私のチームは県大会準優勝から東海大会に出場しました。
大学のサークルでは世界の人とのつながりに憧れて留学生の支援団体に所属しました。団体の運営に限界を感じ、日本全国の他大学の類似団体とネットワークを作り、大学3年生と4年生のときに100人規模の研修会を2年連続で開催しました。
就職した会社でも、従業員1万人さらにはグループ全体で20万人と一緒に仕事をしている喜びを感じながら、目の前の仕事、部署間やお客様との調整に奔走しました。
そのときそのときで一瞬はチームワークができている感覚を味わえたものです。
でも条件状況が変わったらけんか別れになったり解散になってしまったり叱責されたり、とにかく長く継続することはありませんでした。
大学のサークルでは、複数人から「先輩たちが優秀すぎてついて行けない。話すのが怖い。」と言われたことがありました。とてもショックでしたが、正直言われている意味がわかりませんでした。
会社のときにも後輩の気持ちがまったくわからず育成がうまくできませんでした。しまいには指導もいやになってしまいました。
やればやるほど、うまくできない・伝わらない・寂しい思いが蓄積されました。
そして、ふと周りを見ると、なんだか一生懸命にやって"いない"人の方が楽しそう。
ここでもあの言葉が頭をよぎります。
どうせみんな自分の人生を好きに生きている。
だれも私のことなんて気にしていない。
私は私で、幸せになるしかないんだ。
人生の絶望の淵に立つ
そんなふうにがんばり続けたある日、ふいにコップから水があふれるように絶望に襲われました。
このまま一生が続くんだろうか・・・・という素朴で恐ろしい問いです。
前向きにがんばったら一瞬の幸せ成功は手に入る。でもいずれまた新しい目標が現れてしまう。そんな人生の繰り返し。まるでニンジンをぶら下げた馬のよう。ラットレースからは降りられない。降りる勇気もない。
そして、人と人とのつながりもはかないものだとわかってしまった。一生涯のつながりなんて無い中で、その時その時の付き合いで生きていく。
人間というものはこんな無常を一生続けるものなのか・・・
あと50年こんな生活が続くなら生きている意味っていったいなんだろう。
苦しくてもトンネルの先には光が必ずあると信じて前向きにやってきたけど、光なんてなかった。トンネルはずっとトンネルのままだった。
絶望に打ちひしがれました。
私はこのあと一体どうなるのでしょうか。
後編へ続きます。
お読みいただきありがとうございました。
Written by miwa(@miwa_spring33)